これまで、行政は地域住民の生活基準、いわゆるシビル・ミニマムを保障し、地域の生活環境をより快適なものへと改善していくという一つの大きな使命を受けて、ハード面の整備を中心とした『街づくり』(平仮名の『まちづくり』とは区別する)に関わってきました。シビル・ミニマムは、人間生活にとっての最低保障という考えから全国一律の基準をつくり、それらを効率よく達成する方法を採ってきたわけです。
行政にとっては、地域生活の環境が整備されているかどうかということが、執行するための基準でありました。例えば、道路や公園あるいは公共建築物がどれだけ整備されているのか、あるいは下水道がどこまで普及したかということが判断基準であり、それらが全国と同じレベルにまで達成することが行政の役割であると考えられてきたわけです。いわゆる、ハードに重点が置かれ、その地域にとって何が大切なのかということよりも、数値で表されるもので行政の貢献度合いを判断してきた傾向にあります。このような考え方の『街づくり』を効率よく達成するために、 |
国 |
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広域自治体
(都道府県) |
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基礎自治体
(市町村) |
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地域住民 |
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という流れをつくり、地域による個性的なものを除外し、画一的に行動することが出来る全国一律の政策を企画し、補助金というシクミで各地方自治体に地域整備を執行させてきたわけです。
一方で、住民がその地域の生活環境への関わり合いを自ら放棄していったことも一つの理由ではありますが、地域の環境改善は行政の役割と思い込み、地方自治体が戦後から今日までそのような『街づくり』を行ってきました。国が政策を企画し、地方自治体がその政策に疑問も持たずに、無条件に執行するという仕組みにより、日本は、戦後、急速な経済発展を遂げ、住民の生活が今日のように安定してきたことは事実です。
しかし、その反面、地方自治体においては、中央のマニュアルに沿った『街づくり』が、中央の体質をそのまま踏襲した縦割り的な機構の中で進められることになってしまったのです。この結果、地方自治が放棄されたまま、また、主体的な関わり合いを持つ住民が不在のままに、地域の生活環境づくりが進められることになったわけです。
これまでは、行政が一方的に事業という行為を通して『街づくり』を行ってきました。住民も、このやり方に甘え、「行政が何んでもやってくれる」という意識を拭い切ることは出来ません。そのため、住民は地域づくりに直接関与せず、地域活動での不満な個々の事象に対して、反対運動や要望・要求運動を展開し、その過程については、行政に依存する受け身的な立場を採ってきました。
このような現象は、住民が行政に頼り過ぎるという日本独特といっていい現象ではありますが、今後は、これをもっとより良い方向に変えていかなければならないでしょう。
行政も、このような住民からの要望・要求に神経質になり、誠意ある住民の『まちづくり』(『街づくり』とは異なり、ソフト面も含めた総合的な取り組み)に対する要望・要求に対しても無視せざるを得ないところがあったことを認めざるを得ません。
行政にとっては、地域生活の環境が整備されているかどうかという「量」が重要であり、その地域がどういう暮らし方を望んでいるのか、どういう環境整備が必要なのかという「質」のことまで問わずに行政主導の『街づくり』を進めてきました。
道路や公園、下水道といった、ハード部分に当たる「量」を達成するにはこれまでの手法でも問題はありませんでしたが、シビル・ミニマムの「量」の部分についてほぼ達成された現在、ソフト部分に当たる「質」、いわゆる、別の言い方をすれば、その地域の『文化』をつくることが今求めれられています。
『文化』とは、人間らしい価値と技術のことであり、機能と効率の工業技術文明がもたらした利便性と引き換えに失ってきた様々な価値、
例えば、「ゆったりとした時間」
「真っ暗な闇」
「みどり」
「水辺の潤い」
「芸術芸能のたのしみ」
「家族との団らん」
など、心を満たした感性を豊かに開花される人間として不可欠な価値、それをもたらす技術のことを意味します。
その地域の独特な『文化』、いわゆる、『地域文化』の振興とは、地域の人々が住み続けていたいと思い、住んでいることを誇りに思う、そのような魅力のある地域社会をつくり出す営みのことなのです。地域文化をつくり出すには、その主役となる主体の考え方を変え、 |
地域住民 |
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基礎自治体
(市町村) |
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広域自治体
(都道府県) |
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国 |
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という逆転現象の流れを起こさなければなりません。地域独自の『まちづくり』は地域の人が考えなければならないのです。地方自治体が主役になり、その地域の『まちづくり』をしていかなければなりません。
地方自治体とは、市町村職員のことを意味してはいません。勿論、市町村職員が重要な位置を占めることになるため、職員の意識改革は大変重要なことには間違いありませんが、その地域の住民も含まれることから、地域住民の意識改革も大変重要なことです。地域住民も、従来のような行政依存型の受け身的な立場ではなく、積極的に地域の『まちづくり』に参加しなければなりません。むしろ主役にならなければならないのです。このことは地域住民が『市民』になることを意味します(『市民』の概念は後で説明)。
最近、住民参加という言葉をよく耳にしますが、住民参加とは、行政側が主体となって、その企画に住民側が参加するという住民側から考えると受け身的発想です。住民主体の行政参加、あるいは住民参画でなければなりません。平仮名の『まちづくり』はこのことを意味しています。
地域住民一人ひとりに、その地域に住み続けたいと思い、住んでいることを誇りに思う、という意識が生じれば、そこには、地域独特の『文化』が生まれてきます。このような『市民』が一丸となってその地域をつくろうとすれば、自ずと同じような『まち』は出来ません。むしろ同じような『まち』が全国一律につくられていることが不自然な現象なのです。
従来型の全国一律のシビル・ミニマムではなく、今後は新しい意味のシビル・ミニマムの考え方が必要となります。地方分権が進み、地域のことは地域の人たちが考えることになれば、自ずとその地域の財源にも限界が生じてきます。そうなった時、限られた財源の中でその地域が何を重点に考えていくかが問われることになります。道路や公園が重要なのか、コミュニティーが優先なのか、あるいは高齢社会における地域づくりに重点を置くのか、などが必然的に問われることになり、その地域の人たちにとって何が優先されるべきかというプライオリティーを決めるためのシビル・ミニマムの考え方が必要になります。この中には、従来の考え方には無かった文化的要素も含まれたシビル・ミニマムの概念となります。
これからは、従来型経済発展型思考の『まちづくり』ではなく、地域文化型思考の『まちづくり』を選択する『まち』が現れてくるでしょう。『市民』が一丸となって自分の『まち』について話し合い、自分達の地域をつくっていくことが、本来の意味の『まちづくり』なのです。
このような『まちづくり』を進めるためには、情報公開と市民、企業、行政の3つのセクターが対等の立場で関係するパートナーシップが築かれていることが前提となります。
北海道は広大な面積を有しており、気候条件の違いだけではなく、地域の人たちの考え方も自ずと地域により異なり、それだけに地域独特の文化が生まれてくる可能性を含んでいます。
この広大な北海道が豊かな地域社会を創造していくためには、地域の『市民』が自ら考え、パートナーシップの基に、それぞれが責任をもって地域をつくり上げるという市民社会を築くことが大変重要なのです。 |