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フ ォ ー ラ ム |
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「期待はずれでつまらなかった フォーラム・シンポ
と面白く楽しかった フォーラム・シンポ」
ど こ が 違 う の か ? |
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☆☆☆☆☆ 会 場 づ く り に つ い て ☆☆☆☆☆ |
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●工藤
(ステージは距離をつくる)
我々はやっぱり経済的なところを選んでしまいますね。良く言うと会場がどうかということはありませんけれども。一般的に我々がやっているのは、ステージの上に乗せちゃう。みなさんに良くみてもらうようにということになっちゃうんですよ。そうするとやっぱり、結果ですけれど、聴衆者とパネラーの方々との距離をつくってしまったなあと。で、ある時、パネラーの一人がある時、壇上から降りて話し始めた場面があったんですけれども、あれで聴衆者の方々は何が起きたのかなあということで注目を集めるようなことがあって、また、面白さが生まれたという結果もあったんですけれども、ひょっとすると同じ目線であってもちゃんとお話合いを皆んなでしようかなあという雰囲気になった。それと、出来れば綺麗な芸術的なという場所も居て居心地がいいという雰囲気もあったあらいいのになあという感じをしています。
●田村
今日の会場はいかがですか?
●工藤
ちょっと味がないですね。このごろは時計台も利用できるとかということですし、そういうような雰囲気もいいのかなあと思います。
●田村
神原さんはいかがですか?
●神原
持てる者と持てない者の違いかなあと思うんですが。市民グループというのはだいたいお金がありません。だから、会場というのも立派な会場とか、芸術的ななんてとかは考えたことなくて、極端に言えば、どこが安く借りられるかとか、どこが無料かとか、だから、いろんなシンポジウムとかをやりましたけれども、内容はともかく、第一ということで印象に残っているというのは、野外でワイワイガヤガヤやって。私は戦後の多分民主教育の一番良かった時代の学生だったと思うんです。その時のことを思い出して応用してフォーラムをやったことがありました。それは、最終的には、一つのテーマに対していろいろな意見を言ってもらって、3つとか4つも意見を戦わすという方式を採ったんですけれども、それぞれの意見を代表する人たちが、自分の所属グループというか、帰属グループを持つわけです。それで戦わせる前にそれぞれ自分のグループに行って、どういうふうに意見を戦わすみたいなことを、中でまず相談するわけです。よくこういう論法で行こうとかということで、それでまとまると、一堂に会して中から代表が1名ずつ出て来て、グループで討論したことを基に意見を戦わすわけです。
で、それも昔ですから校庭を使って、平場で、だから逆にそういうことが出来たんだろうと思うんですけれども、私たちはお金が無い時はよく学校の体育館なんかを使います。あるいは廃校をですね。今は使われない学校の体育館とか大きな部屋とかですね。そんなふうにですね。出来るだけたくさんの人が集まらないような、意見を証明する場をどうやって救い上げるかという、そういうところが私は舞台設定の絞りどころかなあと思います。
それからもう一つは、これはもう舞台を使って、大きな会場でやった時に、パネリストはパネリストでいるんですけれども、それぞれにいろんな地域から3分間スピーチみたいなものを5人くらいにやってもらうわけです。この地域では、こんな問題があって、こんなふうに考えている、どうですかみたいなことをやった後で、ディスカッションに入ると、会場全体が、こんな問題があるのかという問題意識というものがあって、それは情景のステーションにしてうまくいくと何か緊張感が漂うというか。
●田村
その場合は、コーディネーターというのを特に決めないのですか?
●神原
決めます。その場合は、全体をまとめていく、コーディネーターの腕にかかっている。だけど、私は平場でやるやり方というのは、まだまだ、いろんな工夫が出来るのかなあって思うんです。無いものは無いものなりの知恵を出しております。
●田村
昔、私はそうだったという人がいるんですよね。問題提起をするような人たちがいるから盛り上がるんですよね。
●森
(会場づくりのポイント)
会場のつくり方は、椅子の並び方をいつも問うんですが、最近役所何んかは、セレモニーをやるように式場を式典をやるようにですね、きちんと並べるんですよね。4割くらい椅子を漠然と並べてですね、あとの6割の椅子は畳んでおいて、そして入って来た人は前から順番に座っていって、一応前には誰も座りませんから、椅子が並べてあれば仕方がなく前の方に座っちゃうと、それでも一番前は空くと思うんですね。始まると同時に前の椅子をスーと取っちゃう。4割くらいの人が入ったら後から来た人は椅子を自分で持って、適当な場所に座って下さいというようにするのが会場はいいと思うんですよね。私は、今日のような場合は、一遍立ち上がって下さい、椅子を持って少し動いて下しと言うんですよ。それからステージですね。発表者を囲うように、壇上に上げるのをなるべく避けるようにですね。固定度の高い、壇上ならやむをえないんですけれども、とにかく遠くにしないと、中には相方の顔が見えると、つまり、パネラーが対論討論をするためにありますから、それから、司会者の位置は端っこで、司会者だけはマイクを専用にしてもらわなければ困る。それからこの名札は作るときは開催者が作るんだけれども、主催者は発表する人に対して敬意を表す気持ちがあるから、氏とか先生とか書くんだけど、ここに本人が座ったら、自分のなんだから、下の敬称はいらないけれども、写真を撮った時に、写真の中にこのフォーラムのテーマが何んのためにやっているのかということが写るところにタイトルを貼る。それから、出来ることなら参加した聴衆者とパネリストの方々が一枚の写真に写るように撮るという工夫も、会場によりますがね。だから、広い会場だったら縦に使わないで、横にぐるーと廻るとか、出来たら司会とこの辺まで座っている人が来るように、一体感をいかにつくるかということが極めて重要なことだと思うんですよね。逆に対極にあるのは、式典をやるように並べるということですね。会場のつくり方は雰囲気をつくりますから、極めて重要だと言うことです。
●田村
私は一番だめだということで、典型的なのはね。これはもう人数の入れ方によりますから、舞台のあるところで、高いところでやるというのも、これはありうるわけです。かなりの人数を集めるわけですから、しかし、緞帳というのがあるんですよね。それでよくね。緞帳を下げて。この前もある学会があってね、そこでは緞帳が下がっているんです。下がってから、また上げたり下げたりするんです。緞帳を一生懸命見せているわけですね。緞帳というのは、結構値段が掛かってますからね。寄付者もいるしね。寄付者の名前も見せないといけなかったり、いろいろするんだけどね。少なくともね。その学会はそれをする必要がない学会なのに一生懸命しているんですよ。ぼくはそれは断固反対で、そしてパネラーとして出ていって、緞帳を次々と上げてやってパネラーが並んでいる時に上がって、私はパネラーだったんですよ。会場の真ん中から上がって、パフォーマンスわざとやって見せて、これは意味があるんです。
(緞帳のある会場)
実は、緞帳というのは、あれは、隠れた向こうのね、仮想の世界をつくるという意味なんですね。こらから架空の話しが始まりますよ。我々はそうじゃない。現実の話しのシンポジウムやフォーラムをやっているんだからね。そういうことをする必要は全くない。設備としてあることは立派なことですね。結構な話なんですけれどもね。そうしたことはやらない。もう一つはね、じゃ、席の入れ替えをしている。
(席の入れ替え)
つまり、基調講演者がいたり、その他の人がいたり、一生懸命席の入れ替えをしている。席の入れ替えをしているのをね、見せたくないという人がいるんだけど、ぼくは、これは断固見せるべきだと思うんですよ。誰がどうやってそこを動かしているのか?我々がよくやる学会というのはね、その学会の人もいましたけれども、学会員じゃないその地域の方々が手伝ってくれるからやっていけるんですよ。こういう地域の方々がいないと成り立たないわけですよ。机の一つの移動でね。そういう方々がやってくれているということはね、他の会員全体に対して、見て、そうか、それならやれるさ、とりあえずやっているんだということを感じなきゃいけない。そういうね、緞帳があったりしたときの少なくとも悪い方の例として、これから劇でも始めるというのは勿論いいんですよ。オペラを始めるとかいうならいいんです。架空の世界が始まるんだから、そうじゃないね、フォーラム、シンポジウムでは、それでもどうしても見たけりゃ、初めは見せてもいいが、一度上げたらその後は、後かたづけも何んでも全部する。この頃は私の言うやり方が割合多いんですよ。ところが私が代表をやっていたある学会が、そういうことをやっているんで、これはちょっとね、おかしいんじゃないかなと、あえて自分でパーフォーマンスをして、文句をつけない。最近のことで森さんはよく知っているんだけど、名前は言いませんけれど。
(一体感をどのようにして持つか?)
でも、そういうふうにね、みなさん方と話している時に、一体感をどのようにして持つのか?。
この前来た時には鼎談だったんだけど、円形的に真ん中にあって、周りがこういうふうになっていて、なかなかあれも良かったですよね。このくらいの数だと、そんなに多くもないし、まあ、一体感はある程度持てる。だたし、一体感を持つのにどうするか、そこに緞帳とか何んとか余計なものはいらない。もし、いるんだったら、最後の一遍だけでいいよということを言いたいですね。
(名札の問題)
そして名札の問題ですね。これは氏が書いてありますし、先生と書いてあるのは少なくてもいらない。先生とさっきの話しにも出ましたけれども、先生どうぞというのは、話しが全く出来ない先生となるんですね。おそらく先生をやったことのない人が先生をやります。先生になっちゃったら、先生同士ではないんですね。先生もそれぞれの先生のご意見を伺う。シンポジウムをやるなら先生じゃない。これは氏だからね。これは、もうちょっと緩やかだからね。少しね、巾があるからね。だから、先生とは大分違うんじゃないかと。少なくても先生ではないですから。
舞台でも中身の方に入りますよ。今日は、皆んな「さん」にしてますけれども、私がコーディネーターをやるときは偉い人でもそうでない人でも皆んな「さん」にしていましたよ。ある人によって大学の人は先生と言ってね、それ以外は「さん」を使っている人もいますけれども、あれだったら
聴く方がややこやしくてね、出ていくのは同じなんだから、日本語ではやはり「さん」が一番無難で、他のところもあるかもしれませんけれどね、しかし、要するに議会じゃあるまえし、わざわざ君と言う必要もあるまいし、それから土井さんみたいに「さん」の方がいいという人もいますから、これは「さん」でいいし、ここの書き方は一応は敬称は略していいのではないかな。しかし、どういう人間が来ているのか見たいと。そこでやるのは聴衆に対するサービスではあると。誰だか終わったけど分からないと。どれがどれだか分からなくなっちゃった。それは見れる程度になっていると私はいいんではないかなと思います。まあ、いろいろ今のように出たんですが、舞台設定について何か、こういうことが良かった悪かったけどということで言うことがあれば。
●聴衆者(工藤)
(車椅子でも参加可能な場所を提案)
工藤と申します。高齢者とか障害者のためのケアを専門にやってます。 今伺っていることの感想的なことでありますけれども。車椅子の方でも参加しやすい場所を提案したいと思います。文化的な居心地のいい場所というよりも、障害者の方特に車椅子の方々が安易に入れる会場であるということが、どなたさんでも入れる開かれた会場として必要なのではないかと思います。この椅子はこのように結構移動することが出来ますね。ですからそういう自由なスペースというものも大事なことではないかと思います。
(パネリストが見えるように)
あと、平場での話し合いが大事ということですが、実際ここに座られて見ますと、パネリストの皆さんの顔がよく見えません。皆さんから見れば不特定多数の人間ではありますけれども、やはり、一段上なり下なりにして、皆さん、パネリストの方たちの表情が見えるということによって私たちとの一体感が生まれるのではないかと思います。
●田村
(一体感にも矛盾がある)
それは大変重要な視点なんですね。私は講演する時には、こういう時にはあえて立ってやるんです。その方が、皆さんの顔も見て見たいし、向こう側からも見られるという方がお互いのやり取りでいいと。ただ、パネルディスカッションの場合、皆さんが立ち上がってね、いちいち何か言う度に立ち上がって言うと、様にならないんでね。そしたらやっぱり小さい台がいるのかなあと逆にね。ということがあるんですよ。これはちょっとね、皆さんの感じで一体感を持つというとやっぱり、顔は見せておかなければならないと、それは今、矛盾するところなんですけれども。
●森
(表情が見えることは重要)
世の中にはジレンマというものがあるんですよね。だいたい、これ、人を収容する壇上を台にしている体育館や何かは非常に大きくてね、上から演説をするという設計ですよね。この程度の広さだったらね、私たちがそこへ行って、ぐるっと廻るようにして、きちんと並べないでバラバラに一度立ち上がってもらって、好きなところに場所取りをしてしまえばね、多少はいいかな、それからあるいはぐるっと周囲から取り巻くというのもいいと思うのですよね。会場の設営としてはね、そうすると向こうの方は顔が見られるけれども、こちらの人は背中ばかりになっちゃうんだけれども、ちょっと時々顔見たいと思ったら移動して顔を見に来ると、とにかく原則として人の顔が表情が、顔つきが発言によって出ますからね。表情が見えるということを非常に重要なことだというとすれば、全くその通りです。
●田村
(会場づくりも一長一短がある)
この前、大阪の中の島公会堂、これからね改築しちゃうんですけれどね、改築する前に見たんですね。あういう昔の公会堂式のものは、かなり、台が皆んな高いんですね。現実的に、基本的に演説なんですよ。だから弁師があって、こういうものがあんまり無くても演説で声が通るんですよ、実際やって、今でも公会堂で声が通るんですよ。だからそういう話しはね、平場ではないんだけど、逆にこちらを上げといて皆んなに見させるようになっているというのは、あれはあれなりにうまく出来ていたなあ。ただし、あの場合にはね、上からああだこうだという一方通行的な問題はあるんだけど、しかし、皆んなに見せて声が通るという仕掛けとしては案外うまく出来ている面もあるし、だからね、これは建築の問題にもなるんですが。だから一長一短ありましてね、こっちを立てるとあっちが立たずという関係があってね。しかし、皆さん方の中で、とにかく皆さんと一体感があった方が必要だということはあったんじゃないかと思うんですよ。しかし、それなりに見えた方がよろしいと、この矛盾をどうやってうまく解決するかということだと思いますがね。他にどうでしょうか?
●聴衆者(後藤)
(シンポジウムは格闘技)
札幌市立高専の後藤と申します。まず、シンポジウムということの考え方が、どうも何か、この中ではいろんなものが含まれちゃって、先程、神原さん最初に言われました講演会的な内容も、これもシンポジウムじゃないと、パネリストが横に並んで合同の講演会みたいになりますと、これは、それを見せるという形になりますし、また、パネリストの方たちが、今度はお互いに討論会を、これを見せて頂くと、ある意味では格闘技と言ってもいいのかなと思うんですが、面白かったら座布団を投げてもいいかもしれませんし、それから、まあ、そういうんじゃなくて主体がこちらにあるとすれば、こちらの話しを聞き出す話題提供なり、いろいろな仕掛けをバリエーション変えたりする場合もある。で、その会議がどういう会議だったかということがなかなか主催者の方から回ってきませんで、まず、やはり、このシンポジウムがどういう企画だというのが、どういうことを言いたいのかということが、なかなかそれに対する資料が来ない状態がままあるような気がします。
(階段状の会場は雰囲気がつかめる)
で、それによって、その座り方も違ってくるんでないかと思うんですけれども、こういう会議ですと、良く見えるように高い方がいいし、下から見てやるのもいいんでないかと思いますし、こういうお話合いで仲間で一緒にやるというならこういう場がいいし、で、机がどうも気になるんです。やはり、これになって出てきて一緒の形で座り合うとやはり、パネリストも何んかこう、これがあると、凄く気が楽なんですね。無いと何か自分を曝け出すということでいいんじゃないかと、私は一番やりやすかったのは、やっぱり、階段になっている。相手の顔が見えるんです。話しをする時にだいたいどういうことを話せばいいのかなあということが、その雰囲気がつかめるという気がしますね。
●田村
ええ、階段教室みたいなもの、あの議会の昔にあるようなものは、オペレーションを見せる垂直楽団があって、上から眺めてもよくてね、そういうのもありましたね。ああいうと本当に、中まで見えちゃうんですけど、ええ、なかなか面白いいろいろな課題があると思います。ですが、これは、並べ方もあるんだけど、森さんもその文化ホールをいかにつくるか何んて言っているんだけど、文化ホールのつくり方、その他改造のような、あるいは建築の私も一応建築出てますから、建築の設計の問題とかね、いろんな話しが絡んじゃってね、単に企画上の問題だけではないんですけど、まあ、一応はいろんな話しが出たんじゃないかな。矛盾するものが両方あるんだということでいいんじゃないかなと思うんで、そのテーマによってどっちの方に重きを置くかでね、必ずしも全部を満たすということは出来ないんですから、変えようというような主旨でそのことを出せばよろしい。
(問題点を認識する必要あり)
しかし、今のような問題があるんだということを、主催者側がきちんとね、認識していることが必要だというくらいじゃないかと思います。
それじゃ次にもう少し移りましてね。今、私はコーディネーターをやっているんですが、やっぱり、コーディネーターなるものがかなり重要な役目を果たすんじゃないかと、これ一体何をやらかすことなのかね。ここをちょっとやってもらいたいんですけど、どうでしょうかね。神原さんからどうですかね。何をやったらいいんですかね。何をやったらまずいとか。 |