フ  ォ  ー  ラ  ム
「期待はずれでつまらなかった フォーラム・シンポ
面白く楽しかった フォーラム・シンポ」
ど こ が 違 う の か ?
 
☆☆☆☆☆  企 画 に つ い て  ☆☆☆☆☆
 
 
●神原

 私は、やはり、市民活動という分野で動いています。だから、たとえば、どうしても泊原発3号機は何んとか止めたいとか、あるいはあの遺伝子組み替え食品の表示は何んとかさせたいとか、非常にせっぱ詰まった目前の課題で動いています。多分お仕事として、研究者の方々とか、あるいはそれぞれ団体の方々とか、そういう人たちは仕事の延長上でシンポジウムに参加したり、あるいは聴いたりということがあるのかもしれませんが、市民活動に関わっている者としては、本来なら聴いていない方々に何も語らいたくないのですけれども、誰かがやらなきゃ事態が良くならないから、しょうがないやるかということで動いています。そういう意味では、もしかしたら解決というか、答えを急いでいるかもしれません。

(何かを学びたいために参加)
 だから、シンポジウムというか、大勢のいろんな人が集まって、何かに参加するというときには、パネリストとして参加するのであれ、聴衆として参加するのであれ、そこから解決するための何かを学びたいと思って、いつも参加しているわけです。たまにですけれども、何も学べなかったというのがあります。

(開く目的は何!)
 どうしてそうなるのかなあって思うんですけれども、ちょうっと言いづらいことなんですけれども、結局、パネルディスカッションとかフォーラムとかちょっとファッションと流行みたいなところがあって、何かやるのにフォーラムやればいい、パネルディスカッション形式でやればいいみたいな、ちょっと安直な開かれ方がされる時もあるんで、そういう時には、進行は例えば、話しが慣れている方がやるとか、話しが出来る人とかというんで、テーマそのものに重きが置かれているんではなくてやるということですから、話術とかあるいは話しの技術といったらいいのか、あるいは、有名な人かどうかという感じで、「何んのために開いているのか」。「それで何が解決するのか」とか、「何が分かるのか」というような「目的」と言えばいいんでしょうか、そこが、私なんかは、役に立つ立たないかの最大の印象になります。

●田村

 非常に明解ですね。

●森

 神原さんにお尋ねをしますけれどもね。つまり、「今せっぱ詰まった状態で、市民運動の企画をしておりますけれども」とおっしゃったんで、つまり、開くタイトルやテーマに問題意識がはっきりしているということだと思うんですがね。しかし、その場合は、狙いは、シンポジウムの目的がそういうことになってくると参加者に一定の共通認識を持ってもらうとか、共通の理解を持ってもらうという方向づけをするということに狙いがあることになりますか。

●神原

 同じような共通の認識っていうよりは、出来れば、例えば私なんかは原発の問題でしたら、勿論反対ですけれども、本当に面白いシンポジウムをやろうと思ったならば、推進する立場の方々ととことん話し合ってみたい。そういうふうに思います。ただ、それがなかなか実現しないんです。推進する側だけでなくって、特に、これは北海道だけじゃなくて、全国的な願いだと思うんですけれど、行政の人を引っ張り出すのが実に大変です。だから、シンポジウムだとかフォーラムに参加すると、吊るし上げられてしまうのではないかとか、恥をかかされるんじゃないかとか、そんなふうにまだ思われる行政の方たちとか、あるいは企業の人たちとかは、そこの壁がまだ破れない。
 面白いシンポジウムが出来ないという感じです。企業なんかは、それだけ世の中を動かしているわけですから、もっともっと自信をもって、こういう考えで、こういうデータに基づいてやります。だから、皆さん、これで納得しなさいくらい自信を持って言えるのかなあと思ったら、意外に逃げ回っているというそんな感じですね。

●田村

 初めの神原さんの話しだと、こういう目的がはっきりあるんだとかと言って、じゃ、その目的で全部同じ意見の人がパネラーやるなり、並ぶんじゃなくて対立していると、それはいいと言うんですね。対立がなきゃ何もシンポジウムを聴く必要はないですもね。皆んなでアピールして、皆んなでやろうと、エイエイオーでやりゃいいんだから。シンポジウムをやるっていうことはやはり対立点はあるということが前提ですね。やっぱり対立があった方が面白くなるから。

●森

 立場の違う人がパネリストとして並ぶのはいい。

●田村

 だから、はっきり目的があるにしてもそうなんですね。それから結論がどうなるのか、こうなるように向かおうとしないものだって勿論あるんですよ。これからの分からないような未来に対しては、それは当然にいろいろ多様な人が出てくるんですが、やっぱり、これも出来るだけ多様な人を出すということが企画の中の一つの要素に面白いか面白くないかあるんでないですかね。皆んなが同じ人が同じことを言われるんだったら、一人の人に言ってもらえばいいんであってね。だから、神原さんと同じ意見でも全部神原さんと同じに言っちゃうと面白くないでしょう。それは、だから、そういうものらしいんだけども、そこはそう言っちゃうかとうことが問題ですけれどもね。どうです、工藤さん。
 こんなふうな問題が企画で出ているんですが、JCはどういう企画をしますか? JCは有名人を並べますか?

●工藤

 まあ、予算の範囲ではそうするかもしれません。お金があるとそうしたいという気は一番簡単に思えてやるんですけれども。あの、先程も出ておりましたがディベートのような方法では、今年自分たちが手掛けたシンポジウムの中に、ディベート大会というのをやったんです。プログラムとしての研修のためのディベート大会をやりました。参加チームが、ほぼ12、3チームが出ていたんです。このディベート大会は本当に人が集まりました。見ている方、本当に楽しんでいただいた。そのテーマというのがどうであれ、やり取りの様子がなにせ楽しんだということで大変好評だったんで、これはあとあと使えるなあと我々も企画者側としては感想を持ったんですが。もう一つ、一方では、今日もいらっしゃるんですけれども、道庁の渡辺さんという方にもお願いをさせて頂いて、NPOについてのパネルディスカッションをやりました。これはやはりテーマがテーマなもんですから、なかなか好まれませんで、勉強するという部分のディスカッションということにさせて頂いたものですから、まあ、たくさんの方々に集まって頂けなかったんですが、まあ、その専門分野ということで、行政の方や教育者という方、または、NPOの団体の方ということでお集まり頂いてお話を聴かせて頂いたということだったんですけれども、やはり、見てて楽しんで頂いたのは先程、前者で言うようなディベートとのように戦い合って頂くと。これは大変皆さんが楽しんで頂いた。やはり、その目的でしょうかね。何を感じとって頂たいのかということがやはり先にあり、しっかりとこの時間を生かして頂きたいと思ってやるならば、難しいけれども、その内容をきちんとつかんでいけるようなことにして頂きたいですけれど、その時間を楽しみたいと思うならば、そういうディベートという手法もいいのかなあと思います。
 それから、来る方の目的意識によるかもしれません。企画する上で両方兼ね備えたものになったらいいんだろうと思いますね。なかなかそういうことが出来るようなチャンスが無いところであります。ただ、去年、ここにいる森先生に人肌脱いで頂きまして、そういうパネルディスカッションをさせて頂きました。その時は、森先生に全部、全権コーディネートから企画から全部おまかせして、これは地方分権というテーマでお話をして頂いたのですけれども、この時は大変我々も面白かったなと思いました。

●田村

 どういうところが面白かったんですか?

●工藤

 これはJC対まさに行政者というような。

●田村

 行政の人も入っているの。

●工藤

 行政の方と青年会議所というふうなことでして、先生がコーディネーターということでした。好きにテーマを出しましょう、そして筋書きというものは無い、テーマは地方分権だということでやって頂いたきました。我々もテーマは地方分権を是非皆さんに知ってもらいたいんだということだけで、まあ、はっきり言って、あとは先生もういいと、「内容は私の方が分かっているわけですから」、我々からああだこうだと言われる必要はないんだということで打ち合わせはほとんどなく、先生に全部、その時間をお任せしたということです。

●田村

 JCと行政だけだったんですか?

●工藤

 そうです。ということでさせて頂きました。青年会議所も我々知っている限りの話しをさせて頂いて、道庁の職員の方々が主な人だったわけですけれど、行政として地方分権の考え方はこうだよということで、来ている側も何を地方分権ということで考えていかなければならないかということが、実は分かっていったんです。

●田村

 市町村はいなかったんですか?

●工藤

 いました。

●田村

(対立の構図)
 道と市町村の関係も実はあるんですよね。
 構図が明解だったから面白かったんじゃないのかな。対立の構図がね。それがやっぱり本当はそうじゃないはずなんですよね。まず対立があって、その対立の構図が誰の目にも見やすいと、それが議論になっているから面白いんで。さっき、森田さんが言った時にもぼくはいわゆるディベートと言う、あれはゲームとしてのジャンケンして決めるようなゲームとしてのは置いといて、本当にね、意見が違うのをディベートするのは、これはなかなか企画としてはあっていいんじゃないのかな。
 初めからはっきりね、ジャンケンで決めるんじゃなくて、賛成反対というんで決めてやりゃ案外面白い。今のは賛成反対じゃないですよね。両方とも進めようとする進め方ぐらいですね。賛成反対となるとなかなか企画しづらいんですよ。
 どうですか? 企画についていろいろ問題が出たんですが、皆さん。

●森

 多く私が感じているのは、先程田村さんからも出たように抗論対論がね。まず第一は、一般につい盛りだくさんになって、パネリストの数が多すぎるんですよ。やっぱり、出来れば最低このくらい、司会者を入れて4人くらいなら、時間内でまとまった話しが出来るのではないかと思うんですよ。割る時間を割り算するとそうなっちゃいますからね。

(人集めのため有名人を集める)
 それから一般にやるのは、人集めのために有名人を集めちゃうんですよね。有名人を集めると有名人同士はお互いに関連があって、専門家であればある程、対論をしないんですね。専門馬鹿ということもありますからね。相手のことが良く分からないということもありますから。有名人だから呼ばれているんだけど、そのテーマについては全く何も知らないというのに呼ばれてやっている。

(形式的な進行をする司会者はだめ)
 それから、司会者もですね。よくある手でNHKの人を司会者にするんです。NHKの中でも優れて問題意識を持っている方もいるんですよ。だから、NHKがいけないということを言っているんじゃないんですよ。だけど問題意識がなくて、その問題について深く考えていて、その人の思いがないとね。この会場で議論を何んとか戦わしたいという思いがなければですね。形式的な進行だけではいけないと思うんですね。パネリストが発言した、その人の意味が分からない。そしたら、これならどうですか、それは自分でなくて誰かに言わせるとかですね。

(成功の判断基準)
 特に行政の開催が多いんだけれども、多人数集まった方が成功だというふうに感覚しているんですね。会議でも学習会でもフォーラムでもこれくらいが最高だと思うんですね。動員はしないと。200人も300人もいてね、シンポジウム、討論でないですね。シンポジウム、討論というのは、会場の人が舞台を見せるんじゃなくて、そこで発言はしなくても考えるということですからね。そういう意味では、多く集めるために動員をするのはもってのほか。つまり、主催者にシンポジウムを何んのために開くのか。シンポジウムとかフォーラムとは一体どういうことになれば成功したと言えるのかということについての考え方がきちんとなって田村さんが言ったようにファッション、娯楽、何か出し物としてやっているという感じがしますね。最後に面白かったというのは、いかなることが面白いことなのかという議論に最後はなると思うんですね。

●田村

(行政マンは呼び難い)
 まあ、企画段階のところをやっているんですね。少し中身のさばき方の方に入りますが、さっき、行政の人はどうも呼び難いと、まあ、JCが呼ぶと来るんだが神原さんが呼ぶとだめですかね。対立点がはっきりし過ぎているんですね。

●神原

(行政と市民は相反することはない)
 市民というか住民ですね。住民と行政との話し合いというのは、やっぱり、時間掛かるんだと思うんです。私もいろいろな自治体で、自分の地域を良くしようということで行政と対話集会とか、円卓会議とかいろいろ企画してやってきましたけれども、初めは本当にお互い自分の言いたいことを言い放しで問答無用、次から二度と顔を合わせるものかというみたいな、そういう喧嘩みたいになってきました。でも回を重ねる毎になんとなく同じ主旨の住民として、その地域の生活あるいは環境を良くしようとして、お互い考えているわけですから、特に行政と住民というのは、何も相反することはないわけです。目的は同じで、ただ、アプローチの仕方とか方法が違うんだと思うんですけれども、そこを分かってもらうのはなかなか大変です。

●田村

 例えばね、行政の方もね、私も行政にいた人間ですから、行政目的を持ってこの地域に劇場を造りたい、道路を造りたい、だったら、シンポジウムには来ないかもしれないけれども、何んべんでも行きますよ、おそらく。目的を持っているから。ただ、シンポジウムにはならないのかもしれないけれども。

●神原

 話し合いだったら出ると。ただ、シンポジウムだとパネリストの一人として出たとすると、何か間違った発言をしたりとか、発言した某氏が何か言われて答えられなかったとか。

●田村

 彼らだってちゃんと目的を持っているんだから。あまりかたくなにやっちゃうとこまっちゃうんだけど。

●神原

(キーパーソンは行政マン)
 私は行政とか地域社会というか、それがうまくいくかどうかは、やっぱり、キーパーソンというのは行政マンだと思いますから、その人たちが、要するに、行政の無謬性というか、間違いがないと、そこは自分たち自身が乗り越えてくれないと話し合いの前進はないんでないかなと。そこの壁が、一つ現れているのがシンポジウムのパネリストとして、住民や専門家と一緒になって、メンバーとして参加しながら批判されるし、批判もするし、恥もかくし、当たり前の一参加者とか一住民の視点に行政マンというのが辿り着くというのが結構大変なのかなあと。行政マンというのは、独特のお上、お上じゃないけれども、やっぱりその体質を引きづられているのかなあというのが今までの印象です。

●田村

 一つはお上的だから来ないということもあるんだけどね、必ずしもお上的でなくても行政目的をはっきりして、何かをしたいわけですよ。したいがために出来るだけ直接にそこに来たいと、そう思っているから、他にあんまり言われたら困りますよ。その話しだったら、やりますよ。ということになっちゃう。それはね、必ずしも無謬性とか何んとかじゃなくって、そういう公務員も結構いるんですよね。真面目な公務員がね。

●森

 田村さんがおっしゃっているのは、本来あるべき社会に向かうことを言っているわけですから、いいチャンスなんだと思って、そこで行政の立場を話して貰えるようになってほしいんだけれどもと。だが、現実にはなかなか出てもらえない。これは、行政の世界の無謬性でなくてね、大過無くということかな。

●田村

(行政マンが出ないのは無謬性のためではない)
 問題がはっきりしているやつは来ると思うんですよ。そうじゃないところで、寝た子を起こすようなことをして、変なことをやるとまずいんだということで来ないというのがあるんであって、無謬性のためではないんでないかなあ。

●森

(敵は行政内部)
 敵は市民運動よりも、行政内部の敵なんですよ。おまえあんなところに行って何んの責任があって言ったんだとか、みんなが迷惑するのをどう考えているんだとかという行政内部からの敵があって、そこを分かってやってほしい。

●田村

 前後の手続きで合議を取り付けてなきゃだめなんだけど、往々にしてそういうことはないわけですよ。無謬性よりもそっちの方が多いんですね。

●中津川

(行政は閉鎖的)
 中津川と申します。今年、私は高校を35年勤め退職いたしました。この期待はづれで面白くなかったフォーラムというのを道新で見まして、いつも感じていたことが一つあるのは、高校でも学習指導要綱の中で、高校の中学校の国語教育の中に話しをすることが大事だということが変わってきたんです。非常にいいことだなあと思っているんですけれども。その当たりのところがやっぱり、全体にあったもんですから。いつも、この日本人というとちょっとおかしいかもしれませんけれども、話しをするのが非常に下手くそなんです。会議やっても、高校の先生方の職員会議やってもですね。自分の考え方をガンと取ってしまって、人の意見を聴かない。ただ、一方的にワーワーやって、これでは会議にならないなと思っていることがあるんですが。一つは、ちょっと話しがずれるかもしれませんが、このシンポジウムをやる時に、まず、パネリストの先生方がですね、今ここにおられる4人の先生方のようなお考えを知っていないような方がいるんです。そこが問題なんで、今お話された行政の方が出てくる場合、基本的には、日本社会では、たまにそういうことがありますけれども、ディスクローズ、要するに、あくまで閉鎖的なんです行政は。ある立場から逃れられない。本来、そこから、そこであってそういうものをガンともって来て、ここに出て来られておりますので、議論が噛み合わないのは当たり前なんです。本音で話し合わないですから。やっぱり、あらゆる行政というのは、開示がきちっと行われて、例えば、先程、神原さんがおっしゃったように、原発問題にしても賛成の方にも声を掛けてきます。これ、今いろんなエネルギーの問題で、じゃあ、この問題どうするんだと、21世紀ただ反対反対でいいのかという問題があるわけです。それじゃそこをですね、本当に話し合うことで、今日は凄く勉強したな、いいものを得たなと言って帰っていこうと言っている。そういうことのパネリストを選ぶ場合をまず考えなければならないし、パネリストの人たちがシンポジウムとは一体何かということをまず前段にちゃんと分かってない方を選ばれますとね、自分の立場をただ一方的に言って、それで最後は、先程聴きましたように喧嘩みたいになってしまう。

(議論の楽しさを教えられて来なかった)
 もう一つは、喧嘩になるというのはやはり、議論というのは楽しいもんだというのが、どっかで私たち小さい時から教えられて来なかった。そういうことがあるのではないでしょうか? だから、他人の意見を聴いて、自分の意見を言って、そしてその中から良いものを見つけていくという。こういう要するに、この議論の一つのですね、捉え方と言うか、訓練されていないもんですから、ただ、やると感情的にカッとなってしまって、あとは何んだかただ一方的に揚げ足をとってしまう。これではシンポジウムも、パネリストも何をやっているのかわけが分からない。ただやっぱり、一つはやはり、今結論を言いますと、もっとこういうものがですね、幼い時から子供たちの中で、学校教育何んかでどんどんこれからはなされることが大事だなあ。これはこれからの国際社会になった時に初めて大事に、英語をしゃべるかしゃべらないかは私はその次の問題だと思ってます。そのころになるともっと良くなるだろうなと。それから、やはり、パネリストの人たちは、そういう訓練を自然にしないとならない。次はこういうことになりますよということを理解してから登場してこないと自分の考え方に一方的に、ただもう全然抜け切れない。自分の立場だけをただ一方的に言ってる。それが何だか面白くなくてしようがない。聴いている方はですね。それから最後にはやっぱり、あらゆるところで、やっぱり、日本の社会がそうだと思うんですけれども、そして、まあ、何んでも開示すればいいというものでもありませんけれども、そういう立場の中にですね、今回であれば北海道の行政はどうすべきだとか、そういうことになった時に初めて、非常にニーズが横断的で前向きな意見が生まれてくる。その当たりのところに、シンポジウムが果たす役割があるんじゃないかと思ってます。

●田村

 ええ、私一番最初に申し上げましたとおり、やっぱり日本人の議論の仕方ってね、ぼくらの時代なんかは議論がないと。ともかくね、これでやれというふうに教えられて、ぼくらより後の方々は随分本当はいい時代に、小学校時代から随分議論して羨ましいなあと思ったの。しかし、意外に議論してないんで、ぼくらの時の方がかえって議論してたかなあと思ったりするんですね。ええ、議論の仕方が出来ないまま戦後50数年経て来ちゃった。民主主義って、やはり、主張もあるけれどもちゃんとお互いに相手の話を聴いて、そこで議論が成り立つ。自分の主張と同時に聴くという耳がなきゃいけないし、そこでどこが取り合わせになるのか。そこがまた本当は楽しいんですよね。今おしゃった通りにね。そこを楽しむというのは、教育されて来たように思うんですが、どうも残念なことで。

(企画の問題点)
 それで企画の問題として今出ましたのは、要するに数が多すぎちゃあかんということと、それから形式的なお名前だけで頂くと、もうこの人は言うことが決まっている人だから、それじゃつまらないということと、それから今のような実質、つまり立場は持っているんだから、やっぱりそれなりの柔軟さを持ってね、お互いの話しを聴きながら話しが出来そうな人を選ばないと意味がない。ところが行政の人を選ぶと往々にしてそうじゃないんですよね。決まったことしか言えないという立場の人を呼んじゃうと、だから行政の人を呼ぶと来ないこともあるんだけど、面白くないですよだいたいな。全然面白くなくなっちゃうんですよ。浮いちゃうようなことになって、私は行政の時も出ましたけど、勝手なことも言いましたけれども、まだまだ普通の人はその辺が置かれていないんで、やっぱり、人間はもっとこう意見を持っていて自由度のある程度幅をもっているという人間を選ぶと。しかし、選ぶというよりは、まずその人を育てていかないとだめだみたいな話しになっちゃっいましたが、その中ではやはり違う意見もあって対立があった方が面白いと、まあ、こんあなふうなところで企画のところとして出たところでないかと思います。企画の段階でいかがでしょうかね。

●聴衆者

 先程から言っている行政と教育の教育委員会のような場合、やはり行政の方が上に立って下に下がっていく。で、私もいろいろと生涯教育をやりましたけれども、その一番上が文部省、その次が地方の教育委員会ということで、どうも上から下がってくる。これまでは、我々はその逆行じゃない対立的な意見でもってお互いにこうしていく。その他に、民生のことになっていくと、福祉の問題、これもやはり上からです。だけれども、全ての点でするわけではないですから、行政にローラーかけられてやってきた。まあ、一番問題なのは、今言っているゴミ問題とか、あういうものを自然環境だということは、反対する人は専門家みたいな人ですよ。それを仕事にしているような人ですよ。フォーラム開いても、いろいろ意見の対立はあるわけですよ。しかし、やはり、そこら辺で、地方自治体にしても、やはり、その商工会に、経済と行政ということになると、お互いに手を握るんですよ。これはやはり、金の力ですよ。それからのことを合わせるとですね、やはり、接点の持つものと持たないものと、それをうまく合わせながら、そのパネリストの話しですが、こういうフォーラムを開くようにしてはどうかなと。

●田村

(自由度を持っている人が集まって成り立つ)
 社会構造として上から下になっちゃってんのは、その中でやってもしょうがない。少なくてもその系列からはずれている人たち、自由度を持っている人たちが集まらないとねシンポジウムは成り立たない。その人たちは勝手にやってくれということでシンポジウムはやらない方がいいわけですね。そういうことはね。
 というようなわけで企画のポイントとして、もし、皆さんあれば、また、気がついた時おしゃって下さい。
 本当は企画の中でね、シンポジウムを中心に置いているんで、その中に基調講演を置く。基調講演とどういう関係があるかとかね。これは技術的な問題としてかなりあるんです。基調講演プラスコーディネーターというケースがよくあるんですよ。これ立場が違うんですね。基調講演だったら勝手にしゃべればいいでしょう。コーディネーターは人のことを抑えながらあんまりやってくれるなよと、これは、全然立場が逆だもね。一人が両方やると結構おかしんだけど、時々両方やってくれってやらされちゃうんで、これはちょっと困るんですが。まあ、こんな話しになるとちょっとややこやしいんで、もうちょっと分かりやすいような話しの方から進めますが、舞台づくりというところから。
 この舞台づくりについてどうでしょうかね。会場づくりですね。今日のことも含めてね、会場づくりということについてどうですか?