フ  ォ  ー  ラ  ム
「期待はずれでつまらなかった フォーラム・シンポ
面白く楽しかった フォーラム・シンポ」
ど こ が 違 う の か ?
 
フ ォ ー ラ ム ・ シ ン ポ の 狙 い

森啓・田中     
 
(星の数程あるフォーラム・シンポ)
 最近、新聞などの紙面を開くとフォーラム・シンポに類するものが載っていない日が無いほど、至る所で開催されています。これらは、70年後半から急速に増えてきました。考えなければならない前例の無い問題が数多く出てきたため、「知的生産の手法」ということで広がっていったものと考えられます。

(フォーラムを開いたのは何故)
 しかし、残念に思うことは、社会経済的背景があって非常に広がったのですが、イベントになってしまったということです。つまり、たくさんの人を集めて、催し物の一つとして行われるようになったことです。そのため、パネリストに著名な人有名な人を集め、その人たちが出ることをチラシやニュースで見て、それじゃ、行ってみようかと思って会場に足を運ぶ。実際に行ってみると想像していたのとは違い、期待はずれのもので、がっかりする。そして会場はシーンとしていてつまらないというケースが多い。
 正解のない問題を見い出すために広がったことが、いつの間にか変質してしまったわけです。これは大変残念なことであり、問題点をはっきりさせたいということで、今回のフォーラムを開くことを企画したわけです。

(どこが違うのか)
 いろいろなフォーラム・シンポが存在します。一般に開かれているものの多くは、パネリストの人数が多く、また、パネリスト同士の話し合いがありません。中には肩書きで加わった行政の人などは、部下が書いたと思われる文書を用意してきて、会場で読み上げてしまいます。また、パネリストの一人の発言時間が長く、ミニ講演になってしまったものもあります。
 パネリスト同士の抗論、対論がないということが会場をシーンとさせ、白けさせます。つまり、新しい問題の解決をそこで見い出すという仕掛けになっていないことがこのようなパターンになってしまうのです。
 それに対して別のパターンでは、会場でドキドキヒヤヒヤしながらパネリスト同士が話し合うのです。そして、相手に恥をかかせるということではなくて、パネリストにどんどん質問をする。そうすると応える人は「うーん」と言って言葉を出すのに戸惑いをみせながらも、その質問に真剣に応える。このようなやり取りの真剣味が会場全体に伝わり聴衆から思わず拍手が出たり、溜息が出たり、笑いが出る。このようなものが面白いフォーラムなのです。
 よくパネリストは事前に自分の話すことを文書にして用意してきますが、それを一度破り捨てて、壇上に上がったら自分の体験、経験を基に真剣に話し合い、議論を交える。そのような議論が出来ることが本来のフォーラム・シンポではないでしょうか。
 主催する人が、「何んのためにやるのか」ということを勘違いしているのではないかと思われるのがたくさん見られます。「人が多く集まって何かをやった」ということが目的化してしまっているのです。この場合、自ずとそのイベントの成功の判断基準は、集められた人の数ということになります。これは、上司の命令でいやいや企画し、人集めのために動員を掛けてまで形を整えるという、行政側が企画するフォーラム・シンポに多く見られる傾向です。

(フォーラム・シンポの狙い)
 しかし、フォーラム・シンポの本来の目的を考えてみますと、人集めはあくまでも手段にしか過ぎません。そう考えますと、会場は、あまり多くの人を集めるところでなくてもいいわけです。そこで話し合うことで、「多様なものの見方がある」、「なるほどそうか、うーん初めてここへ来て聴いて良かった」、「確かにそうだなあ」と、こういう感じを生み出すことが狙いでなければなりません。

(企画段階で考えること)
 企画の段階としては、パネリストを多くしない。会を司る司会者とそれから発言者3人が限度。中には、5人6人と並べて行っているものもあります。特に、行政の立場の人が出ると一番面白くありません。会場の設営についてもショーとは違いますので、壇上を設定する必要はありません。壇上にしなければパネリストと聴衆との間に距離がつくられないため、一体感を生み出すことが出来ます。
 また、司会者も右から左へとパネリストへの質問を促すだけではいけません。ここで一番難しいのは、一当たり予め約束した5分なり6分なりの持ち時間をパネリストが話した後が大変重要なのですが、問題の所在が見えていない人が司会者になりますと、また、回して、結局2回同じようなことします。
 もし、司会者が、発言を聞いていて、この問題について話し合ってみましょうと考える人であるなら、一人に長い時間発言をさせないで、こま切れにして発言の回数を多くし、パネリスト同士の話し合いを積極的にさせます。
 パネリストについては、自分の体験や経験があって選ばれているのですから、パネリストの席に着いたら、メモ程度なら構わないけれども文書を読んではいけない。重要なのは、自分以外のパネリストの発言を聞いていて、その発言に対して自分の意見を述べるということ。
 打ち合わせの時に「発言時間を短くお願いしますよ」、「何々さんと呼びますよ」、「この場ではなるべく話しをしなで一番いい意見はこの場で出てしまうからやめにして」、というようなことを言います。本番で他のパネリストの話しを聞いていないと思った時は、「今の発言に対してあなたはどう思いますかと聞きますからね」と釘をしておきます。そういうふうに話すと、「私ドキドキしてパネリストで慣れてないのに」と言われますが、やはり、そのハラハラドキドキしたパネリストの思いが、目に見えない形で会場に伝わって行くことがいいことだと思います。
 フォーラム・シンポジウムは何んのために、つまり、正解無き課題が出てきた中で、何人か立場の違う人が集まって議論を交わらせて、いろんな見方や解明、解決するためのきちんとした方向が見えてくるという目的のために開くのだと思います。単なる著名人が集まって行う娯楽的なショーではないのです。そのようなやり方がフォーラム・シンポをつまらなくしている原因です。
 フォーラム・シンポをやろうとするところまでは大変いいことです。いろいろ考え過ぎてしまうと、結局これでは何か魅力が無いんじゃないかと思ったり、この人も加えておかなければいけないということでパネリストが5人6人並んでしまう。その瞬間にそのフォーラムは失敗の方向に向かって行きます。
 さらに、パネリストも大勢の人の前で話すのだからと思って、夕べから考えてきていることだけをしゃべって、ほとんど隣の人の話を聞いていない。これがフォーラム・シンポを形骸化してしまう原因です。
 司会の方は、そのテーマ、そのフォーラムのテーマのどこに問題があるかについては、勉強していなければなりません。そして、発言の中で「あなたの先程の発言にありましたけれども」とうまく繋げて、会場で「この問題について、Aさんはどう思いますか、Bさんは今のAさんの発言についてどう思われますか」というように進めていくと、話しは繋がっていきます。
 会場参加の場合は、こういう問題もあります。「会場でどなたかどうぞ」と言った場合によくある話しは、また、あの人が立ち上がったという人が発言をする。そして非常に片寄った意見を長々とやる。これは司会者の責任になります。司会者が放置してはいけない。それをうまくやる技術が司会者には必要です。
 この場合は、一問一答にしないで、予め何人かの方に手を上げてもらってやりますが、これも司会者の役割りです。それにもう一つ、会場から発言があると参加者がたくさんあっても自分たちの立場の方から発信したということで一体感が持てるというメリットがあります。ところが、得てして失敗するケースは、パネリストが折角前に集まっているのに、パネリストの話が一当たり終わったら、あとは、会場の大したことのない問題のやり取りでその時間を使ってしまう場合です。やはりシンポジスト、パネリストは選ばれて来ているわけですから、シンポジスト、パネリストの討論が主であって、従的に会場発言をすべきだと思います。得てしてそういうケースも見られます。会場とのたわいもないやりとりという場合もあります。
 いずれにしても最終的には人集めだとか、有名人をとにかく呼んで来て、簡単なテーマを付けて、それで適当にやってもらおうというようなことをやってはいけません。
 とにかく、シンポジストの数を多くしないこと。これは、大変勇気がいることです。多くしない方が成功します。成功というのは議論が深まることなのです。
 一人の話す時間を長くすると白けてしまいます。それぞれ別の方向の話しになってしまい、司会者も、これをどうまとめようかということになります。その辺の幾つかのところを、「今のこの方の発言があるから問題はこういう問題があると思われますので、以下この点と、こういうふうに絞った方がいいかと思われる」というようにパネリストの前で話すことにより、一人の話す時間を短くさせることが出来ます。

(フォーラム・シンポの役割はまだ終わっていない)
 70年後半に始まってから30年近く続けられてきていますが、その役割はまだ終わっていません。かつて梅棹忠夫(うめさおただお)という著名な方が岩波新書で「知的生産の技術」という本を執筆しています。
 成熟社会というか、量的な基盤整備というのが一当たり終わって、地域として過疎が進行して行く。少子高齢化の中で、これからどのようにやっていくのかというような地域問題を解決するためには、「知的生産の手法」としていろんな人が集まってフォーラム・シンポを開いて何らかの方向づけを見い出す必要があります。そこに来た人はそれなりの体験、経験でフォーラムの中から何かを得て帰る。これは重要な手法で、流行のようなものではありません。内容は必要が求めたから流行になったのですが、それが少し変質してしまいました。ショーになっているという感じがします。結局、何んのためにフォーラムをやるのかという目的が無くなってしまったのです。そこを改めて振り返り、原点に戻って、何んのために開くのかということ考えてみる必要があります。決して、フォーラム・シンポの役割が終わったわけではありません。

(今回のフォーラムの目的)

 今回のフォーラムで、「その企画の段階でどういうことが重要か」、それから「事前の打ち合わせでは、こういうことが必要ではないか」、「司会者としてとかく失敗しがちな問題としては、こういうこととこういうことがある」、「パネリストはこうだ」、それから「会場設営は」というようなことで、論点を上げて議論したわけです。
 フォーラム・シンポを企画する場合にどういうことが問題なのか。多くの方々がフォーラム・シンポが開かれていることをニュースなり他の情報でたくさん知っていて、中には実際に参加されている方もいるし、パネリストになった人もいます。たくさん開かれていることは人々も認めることではありますけれど、残念ながら期待はずれだったというのが多過ぎるのではないかと思います。